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【アラベスク】  第4章 男ゴコロ



第3節 父と息子 [12]




 離婚後、周囲の目を気にしてか、正雄もどこかへ引っ越してしまった。だから、お隣さんだった美鶴の家へ遊びに行っても、正雄と出くわす心配はなかった。
「また来たのぉ〜?」
 呆れたような声を出しながら、それでも美鶴は部屋へ入れてくれた。
 美鶴の母も、明るく迎えてくれた。
「よくまぁ、こんな遠くまで自転車かっ飛ばしてくるねぇ〜。やっぱ若いっていいわねぇ〜 アハハハハハッ!!」
 豪快に笑いながら安いオレンジジュースなどを出してくれる。
 生活水準は聡の家より低いはずなのに、どうしてだか美鶴の家庭の方が楽しそうに感じられた。美鶴も母の詩織も、よく笑った。

 そう、あの頃の美鶴はよく笑った。

 水商売をしているので、陽が暮れてから行くといないコトの多い美鶴の母。だから遊びに行くと、二人だけの世界が広がった。
「聡っ 聡っ 今日学校でね……」
 大人なんかいない、子供だけの世界。
 心地よかった。
「なんだよ? お前、また喧嘩したのかよっ」
「喧嘩じゃないっ ただ文句言っただけ」
「お前のやってるコトは、喧嘩って言うんだよ」
「だってあの子たち、また里奈(りな)の悪口言ったんだもん」
 美鶴と他愛のない話や悪戯をして過ごす時間が、限りなく居心地良かった。
 学校も、家に比べたら楽しかったけど、美鶴の家には敵わない。

 その空間と―――― そして美鶴が好きだった。

 そうだ。聡は、自分でもわからないくらい昔から、美鶴のことが好きだった。
 美鶴が居て、自分が居る。他には誰もいない。
 そんな心地よく甘い世界を、いつか失ってしまうなどとは、その時の聡には考えられなかった。
 テニスの試合を覗き見して、その存在の大きさを自覚させられた後も、美鶴と、そして一緒に過ごす時間がいつか消失してしまうとは、思いもしなかった。
 大切なモノでありながら、その存在を当たり前だと思っていた。
 俺の考えが、甘かったのだろうか?
 美鶴がいなかったら、俺はどうなっていたんだろう?
 腕に蘇るその温もり。鼻をくすぐる銀梅花の香り――――
 握る拳に爪が食い込む。噛み締める唇に血の味が滲む。
「聡っ やめてっ」
 俺はどうして、抑えることができないんだっ!
 会場からワッと歓声があがった。狂ったように飛び上がる保護者たち。
 観客席を走り回るのは、選手の妹や弟だろうか。やれ喉が渇いた、やれ腹が減ったと騒いでは親の手を(わずら)わせている。
 アナウンスが流れ、試合の終了を告げている。団体戦の優勝校の保護者だろうか。なにやら雄叫(おたけ)びのように歌っている。
 誰もが活気づき、まだ残る試合の熱気で蒸しかえる会場。その中で、一人聡だけが別世界。激しい悔恨(かいこん)足掻(あが)いている。
 その姿へそっと目を向け、だが何も言わずに泰啓は、視線を会場へと戻した。そうして、喜び勇む少年や少女たちを、眩しそうに笑った。





「息子さんと京旅行ですか。ようございますねぇ〜」
 夕食を部屋へ運んできた仲居の女性が、柔和な笑みを見せる。泰啓は照れくさそうに笑い、聡は黙って上目遣い。
「混んでいるのか?」
 外の甲高い女性の声へ耳を傾けながら、泰啓は話題を変えるべく問いかけた。
「昨日は大変な混雑でしたが、盆も過ぎましたし、今日は日曜ですからね。それほどでもありません」
 聞いているこっちまでホンワリしてしまいそうな京訛りでそう答え、だが手際よく膳を整えると、一伏(ひとふ)せして出て行った。
「飲んでもよかったんだぜ、ビール」
 そう言ってウーロン茶の瓶を手にする聡。
「本当に飲みたかったら飲んでるよ」
 そう言って、促されるままコップを出す泰啓。
 お互いに注ぎあい、なんとなく乾杯する。
「料金のワリには、美味しそうな料理だな」
 目の前に並べられた料理は、刺身や酢の物から焼き物まで、旅館料理らしい品揃えだ。見た目も美しく、目でも楽しめる。
 泰啓がインターネットで見つけたと言う旅館は、JRの京都駅から歩ける距離にあった。
 部屋数は少ないが、そこそこの値段で(おもむき)もあるというのが女性にウケているらしい。特に女子大生やOLの京都旅行でお勧めの旅館だと言う。
 それでだろうか。旅館内ですれ違う客も、ほとんどが女性だ。
「まぁ こういった旅行は、男同士でするもんじゃあないからな」
 最初に聡を誘った時も、そんなコトを言っていた。
 父親と二人旅なんて大して魅力も感じなかったが、断る理由も見つからなかった。なにより、父の母に対する気遣いを、無駄にはしたくなかった。
 こういう男も、いるんだな。
 大人の男と言えば正雄の存在が大きい聡にとって、義父の気遣いには驚かされ、感心もした。
 試合を見た後の今ではどうかはわからないが、もともとは空手にそれほどの興味を持っていたとは思えない。聡を誘うために、わざわざ大会の案内を見つけてきてくれたのだろう。
 母が色気づいたのも、わかる気がする。







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